史上最大の大惨事!が襲った2011年
2011年3月11日。
日本は未曽有の大惨事に直面しました。
史上最大の大地震と津波が多くのものを飲みこみ、
そして奪っていきました。
今回の大震災に、海外から寄せられた様々な支援は、被災者のみならず我々日本人に大きな勇気を与えてくれ、特に、ヨーロッパからはトルコがいちはやく救援隊を派遣してくれました。
そして、同、10月23日。
トルコ共和国東部ワン近郊にて同じくマグニチュード7.2ともいわれる大地震が発生し、多くの死傷者が出ました。そこへ、多くの日本人が救援にかけつけました。
救助活動の現場にて、余震でホテルが倒壊し一人の日本人男性がその下敷きとなり死亡するという悲しい事故が起こりました。
トルコ大統領がお悔やみの手紙を天皇陛下へ送るなど、トルコでは国を挙げての追悼の意を示し、故人を厚く弔い日本へと送り返してくれました。
今、両国は多くの助けや力を借りて、これから復興への道を歩もうとしています。
そこには国や文化を越えた、多くの“絆”があります。
それを“紡ぎ”語り継ぐことにより、その“絆”を世界中に広げて行くことが大きく問われています。
今から120年前の1890年9月16日、その事件は起こった。
オスマン・パシャを団長とするトルコの使節団を乗せた軍艦エルトゥールル号が、明治天皇への謁見を終えて帰国する途中、和歌山県串本町大島の沖合で座礁、沈没。乗組員618名全員が、暴風吹き荒れる夜の海に投げ出される日本海難史最大の事故でした。
この海難事故に際し、真っ先に救出活動に当たったのが、貧しい漁村に暮らす名もなき海の男たち、女たち。
生存者は69名。あの状況下にあって、まさに奇跡の救出劇であったのです。村人は衰弱し体温が低下するトルコ人遭難者を裸で暖め、自分たちの日々の食糧にも乏しい中、体力回復にと村中の食糧を提供。収容された遺体は、棺に納められ、丁重に埋葬されました。
今、その地にはエルトゥールル号遭難の慰霊碑が立っています。
トルコへ帰国した69名は、心温まる日本での救出劇を人々に語り継ぎ、やがて伝説となりました。トルコ共和国は、この物語を小学校の教科書に載せ、後世に語り続け、それ故、すべてのトルコ人が『エルトゥールル』のことを深く心に刻み、遠く離れたアジアの果て、極東の日本に思いを馳せてくれているのです。
『日本人がトルコ人を助けてくれた。この恩を我々は忘れない・・・』
トルコで『エルトゥールル』が語り継がれたのに反し、日本では、時と共に風化し、忘れさられていきました。
しかし、海難事故から95年後の1985年。それを思い出させる事件が日本を遠く離れたイランで起こったのです。
世界史上、類を見ない奇跡の物語は、ここに第二幕を迎える。
1985年3月17日。イラン・イラク戦争の中、イラクのフセイン大統領が48時間後以降にイラン上空を飛ぶ飛行機をすべて攻撃すると宣言しました。
イランに滞在していた外国人は、こぞって国外脱出を図りましたが、日本人だけは取り残されていました。それは、各国の航空会社が自国民を優先して搭乗させる為で、テヘランに乗り入れ便を持たない日本は脱出に不利な状況であったからです。日本政府は安全の確保が難しいと専用機の派遣に踏み切ることができません。まさに、絶対絶命の危機でした。
その時、日本人の救出に尽力してくれたのがトルコでした。専用機を2機飛ばし、自国民よりも日本人を優先して搭乗させてくれたのです。
この時のトルコの対応についてマスコミを含め、多くの日本人が首をかしげました。
『何故、トルコ人は日本人を助けてくれたのだろう?』
記者の質問にトルコのオザル首相は、当たり前だと言う顔で答えています。
「95年前、日本がトルコ人を助けてくれた。だから、今回、トルコが日本人を助けるのは当たり前のことだ。トルコ人はみんなそう思っている」と・・・・
日本人のほとんどが忘れてしまっていた『エルトゥールル』。
トルコの人々は覚えているだけでなく、その時の恩に報いようと動いてくれたのでした。