2012年6月30日 高星輝次
985年3月19日テヘランからトルコエアーに救助していただき、無事に帰国を果たした。私は日産とイラン機械買い付け公団の契約によりサービス派遣員として現地に赴任していたわけだが、戦争が激化し契約の派遣期間を満了せずに急遽帰国した形となっていた。帰国後の私の人事は本社輸出サービス部所属の形のまま、当面は派遣前の自分の職場である車両実験部で業務を行っていた。
テヘラン脱出から1年4カ月が経過した頃、私にとってはこのままなし崩し的に再赴任は無いのではないかという思いが強くなっていった。そして彼女と結婚の約束をした。 その翌日出勤した私に上司は「本社からの要請がきた、イラン-イラク戦争も小康状態が続いておりもう一度残りの期間赴任してくれ」と告げた。こうして1986年8月から12月までの2回目の赴任が決まった。
2度目のテヘランは戦争も小康状態が維持されており、1年4カ月前にお世話になっていたN商社の事務所もアパートも破壊されずにそのまま残っていた。前回の赴任では、エンジン・トランスミッションといった機械ものの整備方法の指導をメインに実施していたがそれも各エンドユーザーに一巡したことから、電装関係の講座を開設するための準備から入っていった。
N商社も、戦争が一段落すればイランはすぐに経済復興し日本との貿易も活発になると見込み、自動車にもその期待をかけていた。自動車の取引が活発になれば当然当社からの出張者なども増加するだろうということで、前回のようなアパートではなく300坪ほどある邸宅をゲストハウスとして契約した。
国営イラン石油会社のVIPが娘夫婦用に立てた邸宅で(娘夫婦は戦争の最中カナダに移住してしまったらしい)、テラスは大理石、キャッチボールのできる大きな庭、玄関ロビーにはピアノが置いてありベッドルーム4室という構えであった。
さらに契約に当たっては、庭の手入れなどをしていた下男を一緒に雇用することが条件であった。彼は庭の片隅のレンガ作りの小さなハウスに住み、ほとんど24時間私たちに仕えてくれる状況であった。料理を作ってくれる元ダンサーの韓国人女性のコック、掃除を担当する女性、そして下男、毎日の出勤退勤を含め移動はすべてお抱えの運転手がついていて、朝出勤時間になると、玄関横付けで車が待っていて、庭の門は下男が開け閉めをし、「ご主人様行ってらっしゃいませ」という状態で、私の身分ではありえないような生活であった。
休日にはダム湖へドライブに行って(自分では運転せず運転手付きで)ボートに乗って遊んだり、深まりゆく秋の公園を散歩したり、パーレビ国王時代の博物館を見学したりと実に平和な生活であった。
二度目の赴任で現地の方との面識もあり、すでに購入していただいた車両の保証期間は過ぎていることもあり、あまり強い苦情などもなく比較的穏やかな赴任生活を送っていった。