2011年08月12日 沼田凖一
1985年のイランはイスラム革命後の混乱も落ち着きを見せ始め、市場として大きな期待を持たれ始めていました。そこで、世界各国の多くの企業がイランに調査団や新事業獲得の為に協力関係商社、会社・営業部門、市場サービス部門などを送り込んでいました。
勿論日本からも、我々の様な現地KD工場技術指導技術者などをはじめ、多くの日本人も行っていたので、テヘランには日本人だけでも500人以上いて、日本人学校も有りました。 そんな中、イラン・イラク戦争が報復都市爆撃に拡大したのですからパニックになったのは当然だったのです。
3月6日イランのアフワズの受爆を境に段々大都市への報復爆撃に発展し、3月10日にはイランの第2の都市イスファハン等に爆撃が有り、何時テヘランに来てもおかしくないところまでエスカレートしていました。日本大使館からは不要不急の人は国外に出る様にという通告が出されましたので、ヨーロッパ便に席が取れた人は次々国外に脱出して行きました。
地方に疎開する人もいました。我々の協力商社のN商社も我々の為にテヘランに乗りいれているヨーロッパなどの航空会社のオープンチケットを3通から4通準備し、空席を捜して駆けずり回っていました。しかし、どこの航空会社も自国民優先で空席がなかなか出ません。 数人分の空席が出ても、当然子供や女性を優先に割り当てるので我々にはなかなか回って来ません。
そうこうしている内に、3月12日とうとうテヘランに空爆が有ったのです。然も一発は日本人が最も多く居住している、日本人学校の直ぐそばに着弾したのです。N商社の社宅もこの地区に有りました。この時の模様を工場から来ていた技術者の一人は「ベッドに寝ていたら、ものすごい音がして気が付いたら床にいたが、何だかよく判らずにきょろきょろ辺りを見ましたが何も有りませんでした。
何が何だか訳が判らず暫くボーッとしていたら、周りが大騒ぎになって来て、やっと爆撃を受けた事が判った。自分はベッドからはじき飛ばされていたんです」と言っています。ですからこの時は恐怖心も湧いて来なかったみたいですが、時間が経つにつれて恐怖心がどんどん大きくなっていったのだと思います。 人間、想像を絶する事が起こった時は恐怖心も、悲しみも、喜びも直ぐには出て来ないと言う事だと思うんです。