2015年5月5日 高星輝次
2010年9月28日、トルコ滞在も今日が最後です。明るくなっていく東の空をホテルの窓から眺めています。徐々にボスポラス海峡が浮かんできます。ボスポラス橋のイルミネーションがまだ光っています。そして東の空がどんどん明るくなっていき、ボスポラス海峡を挟んだアジア側から朝日が昇ってきました。
今日もとても気持ちの良い快晴のイスタンブールです。
朝日の差し込む明るいレストランで朝食をいただきます。今日は25年前に私たちをテヘランから救助してくれたトルコエアーの皆さんとの再会の日です。みなさんと会うのは昼ですので、朝食が終わったら散歩に出かけました。
宿泊しているイスタンブールインターコンチネンタルホテルからは徒歩でタクシム広場に行くことができます。早朝の気持ちの良い空気の中、タクシム広場からイスティクラル通りを歩いていきます。通りの真中を路面電車トラムが走っていきます。
会社へ出勤する人、登校する生徒など徐々に賑やかになってくる通りをのんびりぶらぶらと歩いているのは何とも贅沢です。まだ朝が早いのに、サンドイッチを売る店や、文房具の店、スカーフの店などがオープンしています。
街角では小さなワゴンのようなものでシミットを売る店もあります。シミットとチャイで2トルコリラです。朝食にする人もいるようです。
朝の散歩からホテルに戻り、さあいよいよイスタンブール日本領事公邸でトルコエアーの皆さんと再会です。
トルコエアーの当時の関係者と会えることになったいきさつは、1985年戦火のテヘランからトルコエアーによって救助された後、一緒に逃げ回った商社の皆さんと「戦友会」なる会を立ち上げたまにはあって旧交を温める飲み会を開催していました。
そのころ日本・トルコ友好120周年に向けて取材を続けていた、NHK和歌山の記者の方に私たちの戦友会の存在を知られました。2010年5月の日比谷公園での会をNHK和歌山の取材を受けました。
NHKとトルコ国営放送は技術提携をしている関係にあるようで、NHKの映像はたびたびトルコでも放映されているようです。私たち戦友会の様子を伝える映像がトルコで放映されました。このとき1985年3月19日に日本人救出のためテヘランへの救援機に乗務した客室乗務員の方が見ていました。
そしてその方が、イスタンブール日本領事館に対して、TVに出ていた当時の方にお会いしたい。日本へ尋ねていっても良いので連絡先を教えてくれないかと問い合わせをしてきました。日本領事館から沼田さんに連絡先紹介の確認が入り、沼田さんと私はもし来日されることになったらどのようにおもてなしをするかなどと考えていました。
そのうち今回のイスタンブールでの友情コンサートに同行させていただくこととなり、「それならばイスタンブールの日本領事館で皆さんと会えるように取り計らいましょう」という暖かいご配慮をいただき再会が決定しました。
こうしてみると人生というものは、実に不安定な偶然によって支配されていることがよくわかります。「戦友会」なる単なる飲み会のような会をNHK和歌山の方が取材しなければ、こんなことにはならなかったし、その映像をたまたま当時のトルコエアーの客室乗務員の方が見なければこんなことにはならなかったし、客室乗務員の方が日本領事館に問い合わせなかったらこんなことにはならなかったし、そもそも戦争中のテヘランに赴任しなければこのようなことは起きなかったし、そんな自分の選択とは無縁の偶然の成り行きがそれぞれの人の生涯を決めていくものなのですね。
日本領事館へはホテルからタクシーで向かいます。閑静な住宅街のような街の中に領事館はありました。領事夫妻が私たちを迎えてくれました。しばらく領事公邸でくつろがせていただきました。そのうち伊藤忠商事の元イスタンブール支店長森永さんが来られました。
この人こそ、当時のトルコのオザル首相に邦人救出のための救援機の派遣を直接お願いしてくれた方です。森永さんは当時第2ボスポラス橋(ファーティフ・スルタン・ムフメト橋が正式名称)の入札獲得のため大変忙しい毎日を送られていたようです。そんな中、いわば余計な仕事(テヘランの邦人救出)が持ち上がったわけです。
そして第2ボスポラス橋の工事を落札したあとは、橋の工事を見守ることにできるように、日本領事館のそばに居を構えて工事を進捗させたとのことです。
領事館のベランダに立ち、第2ボスポラス橋を見つめながら当時の話を伺いました。
そしてついに25年の時間を隔てて、命の恩人との再会となりました。当時のトルコ航空のユルマズオラル総裁、救援機のオルファンスヨルズ機長、機関エンジニアのコライギョクベルク氏、そして私たちに会いたいと領事にお願いしてくれた、客室乗務員のナーザンユルマズさん、ミュゲチェレビさんアイシェオザルブさん、デニスジャンスズさん、またその家族の皆様、アリオズデミル副操縦士の家族の皆さんが集まってくれました。
25年ぶりの再会とはいえ面識があるわけではなく、助けた人と助けられた人という関係です。それでもオラル総裁は旧知の友人に出も会うように私たちにハグをしてくれました。スヨルズ機長はやわらかで温かい手で握手をしてくれました。
林領事の奥様の料理をいただきながら当時の話に盛り上がります。オラル総裁は、「オザル首相の命令の元、最強のチームができたと」言っておりました。私は長い間疑問に思っていた救援機で脱出するときに、離陸してしばらくして救援機の両翼にピッタリと付いてきたジェット戦闘機の存在についてスヨルズ機長に尋ねた。
すると「あれは我々を守るためのトルコの空軍機だったと」驚きの答えを返してくれた。イラン領空を侵犯してトルコ空軍が私たちの搭乗した旅客機を警護してくれたというのです。
そして客室乗務員だったミュゲチョレビさんは自分の娘さんを私たちに紹介してくれた。「あの時私のおなかの中にいた子よ」という。「とても危険な任務であり、業務命令で乗務させることはできない。自分から名乗りを上げてほしい」という総裁の呼びかけに全員の機長が手を挙げたという、そして大変多くの客室乗務員の皆様も手を挙げたという。
妊娠初期のとても不安定な大切な時期に、妊娠を夫にも、親にも言わず日本人救出のための救援機に乗務することを選択したという信じられないようなことをしてくれたのでした。どうしてトルコの人達はここまでしてくれたのでしょうか?それは95年前のエルトゥールル号の遭難に対して串本樫野のみなさんが必至の救援をしたことも影響しているでしょうが、それだけではなく、「困った人を一人にはしない」というトルコの皆さんのやさしい道徳心・文化によるものではないでしょうか。
日本人だから助けたのではなく、「困っている人がいたから助けてくれた」のではないでしょうか。日本人救出のために尽力してくれた方々への感謝の気持ちとは別に、道徳心というか博愛の精神というかややもすると日本人が忘れかけている精神がトルコには今も生きているのではと感じさせられました。
楽しい語らいの時は過ぎていき、お別れの時間がきました。客室乗務員のナーザンユルマズさんはこの後私たちを自宅に招待する準備をしてくれていました。今日の夕方の便で帰国することを告げると大変残念そうな顔をしていました。 皆様を見送り、大変お世話になった林領事夫妻にお礼を述べ領事公邸を後にしました。
帰りの飛行機も順調で、大変満ち足りた気分で機内ではラクーの味を楽しみながら、5日間のイスタンブールへの旅を終えることができました。
後日談ですが、イスタンブール領事館で沢山のトルコエアーの関係者にお会いできたのは、2006年春の叙勲で小泉純一郎首相がテヘランから邦人救出をしてくれたことに対してトルコエアーの13人に勲章を送るということがあり、このため外務省・領事館などが名簿や連絡先などを調べていた経緯があり、多くの方と連絡が取れて集まっていただけたということでした。
本当に感謝感謝です。
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