2013年8月31日 高星輝次
2010年6月3日、和歌山県串本町。
今日は、日本トルコ友好120周年事業の一つ、洋上追悼式に参加させていただく日である。宿泊先の南紀串本ロイヤルホテルは露天風呂から太平洋に昇る朝日が見られるとのこと、朝風呂をと思っていたが寝過してしまい、朝風呂は叶わなかった。6時には朝食をとり、7時にホテルのロビーに集合となった。
ホテルからは観光バスで、洋上追悼式の為の船に乗る港へ向かうこととなった。この洋上追悼式は当初私たちには参加要請は無かったものの、大変興味があり串本町役場の事務局にお願いして参加させていただいたものである。
港に付くと沼田さんを待ちかまえる新聞記者がいた、船に乗っても「沼田さんですよね」と声をかけてくる方がいる、沼田さんはこの町ではすっかり有名人である。
港からは海上保安庁の巡視船「みなべ」に乗船し、沖に停泊している海上自衛隊護衛艦「せとゆき」に乗り換えて洋上追悼式の場所に向かうこととなっている。
海上自衛隊の護衛艦は串本町の港には船が大きすぎて接岸できないのであろう。
快晴の抜けるような青空の下、7時55分に海上保安庁の巡視船「みなべ」は岸を離れた。8時10分には海上自衛隊の護衛艦「せとゆき」に乗船、「せとゆき」が進みだしてすぐ、艦内の案内が始まった。こちらも興味深く見学をさせていただいた。
少し船が進んだころ、右手に白い灯台が見える岬が近づいてきた。ここが紀伊大島樫野崎灯台であろう。緑が豊かな岬の上に白い灯台があるが、海面近くはごつごつした岩になっている。大小の岩が海水面から顔を出している。この岩場でエルトゥールル号が遭難したのだろうと、身ぶるいを覚える。
9時、「せとゆき」の一番上の甲板で洋上追悼式が開始された。
一、開式の辞
一、黙祷
一、追悼文奏上
一、御献花(宮家)
一、献花
一、儀仗隊拝礼
一、閉式の辞、となっている。
ここに、洋上追悼式追悼文集から、追悼文を記載しておく。
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駐日トルコ共和国特命全権大使セルメット・アタジャンル閣下
エルトゥールル号受難120周年慰霊式典スピーチ原稿
寛仁親王殿下
彬子女王殿下
ご臨席の皆様
本日は皆様と1890年9月16日にこの海にて殉難したトルコ海軍の将兵を追悼し、彼らから我々に託されたトルコと日本との友好の絆を更に強固なものにすべく決意を新たにするため、ここに参りました。
この悲痛な事故を思い出すごとにこみ上げてくる悲しみの一方で、この悲劇が両国民の間の絶えることの無い友情の礎となったことに心慰められる次第でございます。
エルトゥールル号の訪日と事故後、明治天皇陛下、そして日本国民と日本海軍から我が将兵に示されたご援助と見返りを求めないご助力、中でも串本町民が一丸となり遭難者を献身的に介抱し、殉職者の魂を弔ったご恩を、我々トルコ国民は永遠に感謝の念をもって胸にとどめておくことでしょう。
エルトゥールル号遭難の情報が伝わるや否や、戦艦「やえやま」を派遣し、初の追悼式を執り行ってくださり、また、生存者を戦艦「ひえい」および「こんごう」にてイスタンブールまで送り届けることに尽力くださった、旧帝国海軍、現海上自衛隊の皆様の寛大さに感謝と敬意を表します。
1929年6月3日に、我が殉難将兵を慰霊された昭和天皇陛下、以降、追悼式を毎年執り行ってくださる日本国民に心より感謝を申し上げます。
私の詞(ことば)を終えるにあたり、ここ友好国日本の海に死してなお、両国友好の礎となった我が殉難将兵の偉業をたたえ、哀悼の意を表します。英霊が祖国の土で眠るように、この地で安らかに眠ることを祈ります。
英霊に思いを馳せる今日この日に、ご臨席賜りました寛仁親王殿下、彬子(あきこ)女王殿下におかれましては、心からの感謝を申し上げます。
我が殉難将兵を追悼するこのような盛大な式典の開催に尽力下さった串本町役場の方々、串本町民の皆様、日本国海上自衛隊の方々、日本国民の皆様へ、トルコ国民とトルコ海軍を代表いたしまして、敬意を表します。
ありがとうございます。
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トルコ軍艦「エルトゥールル号」殉難者120周年洋上追悼式追悼文
トルコ軍艦「エルトゥールル号」殉難者120周年洋上追悼式に際し、トルコ軍艦殉難将兵587柱の御霊に対し謹んで哀悼の誠を捧げます。
軍艦「エルトゥールル号」は、帝都イスタンブールからの約11カ月に及ぶ長途の航海を経て、明治23年(1890年)6月横浜に寄港し、同月明治天皇に拝謁し皇帝親書を奉呈するなどオスマン・トルコ帝国とわが国との親善の大役を果たしたのち、同年9月15日勇躍帰国の途につくこととなりました。
しかしながら、翌16日夜半に至り熊野灘において強烈な台風に遭遇し、オスマン・パシャ司令官をはじめとする乗組員一同の奮闘もむなしく、ここ樫野崎沖にて座礁、587名が尊い命を落とすこととなったのです。
海軍軍人として、海に生き海に死すのが宿命(さだめ)とは言え、祖国から遠く離れた異国の地において、非命に斃れることとなった「エルトゥールル号」将兵の無念な思いは察するに余りあります。
その一方で、樫野崎灯台下に流れ着いた乗組員は、急を聞いた大島村の住民総出の救助と献身的な介抱により、69名が救出されたのです。さらに、事件は強い衝撃をもって受け止められ、わが国は朝野を挙げて弔意を示すとともに義損活動を行い、そして「エルトゥールル号」の生存者は、帝国海軍軍艦「金剛」「比叡」の二艦をもって祖国に送り届けられたのです。
事件は真に痛ましく悲劇的なものではありましたが、「エルトゥールル号」の尊い犠牲と大島村民の献身に始まった両国の友好は、様々な分野に広がり、尚一層強固なものとなっております。
本式典に寛仁親王殿下、彬子女王殿下をお迎えしていることは、両国の深い縁を物語っておりますし、昭和60年(1985年)3月のイラン・イラク戦争の開戦に伴う、邦人215名のトルコ航空機によるイランからの救出などは、100年来の貴国のわが国に対する深い思いを物語る証左でもあります。
海上自衛隊とトルコ海軍は、長年にわたり艦艇の訪問や人的交流を続けております。本日ウール・イイト トルコ海軍司令官も参列されておりますが、「エルトゥールル号」殉難将兵の御霊に報いるためにも、海上自衛隊は将来にわたり海軍間の良き関係を続け、両国の友好親善の一端を担っていく所存であります。
終わりにあたり、「エルトゥールル号」殉難将兵のご冥福を衷心よりお祈りいたしますとともに、追悼式典の開催にご尽力されました串本町及びトルコ共和国大使館に対し敬意を表し、私の追悼の詞(ことば)といたします。
平成22年6月3日 日本国海上自衛隊呉地方総監
海将 武田 壽一
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海上自衛隊 海将武田様の「昭和60年(1985年)3月のイラン・イラク戦争の開戦に伴う、邦人215名のトルコ航空機によるイランからの救出などは、100年来の貴国のわが国に対する深い思いを物語る証左でもあります。」という言葉を聞いた時はもう涙をこらえられませんでした。
戦火が激しくなり、いよいよ今日・明日の命すら分からなくなっていた時、トルコエアーの航空機が日本人救出のために危険を冒してテヘランに飛んできてくれた裏には、更にさかのぼること95年、ここ樫野崎沖で発生した悲しい出来事と、それに献身的に介抱した大島村の皆さんの行いがあってこそのことだったのです。
日本とトルコの二つの歴史的出来事の一方の当事者として、この日本トルコ友好120周年の追悼式に参加できたことは、本当に感謝の気持ちでいっぱいですし、背中がぞくぞくとする感動の連続でした。
今回の手記はちょっと重たすぎる内容でしたが、こぼれ話を二つ。
朝ホテルで朝食をしつつ、何気なく見た海辺の風景。海上保安庁らしき船が停船状態で勢いよく水しぶきを上げている。その姿は全力でスクリューを回しているのに一向に船が前に進まないように見えた。座礁した「エルトゥールル号」の追悼式の日に海上保安庁の船が座礁ではしゃれにもならない話である。
乗船してから海上保安庁の方に今朝見かけた光景の話をすると、この船はスクリューではなく、ウオータージェットと言って水を勢いよく吹き出し推進力を得るタイプの船だそうで、警戒態勢の為、いつでも全力疾走できるようにウオータージェットは吹き出しつつ、吹き出し口のすぐ後ろにその水を遮る板を置いて船を停止させているそうです。
いざという時にはこの板を取り除くことですぐに全速力で進むことができるそうです。座礁?なんてとんでもない誤解をしていました。聞いてみて良かったです。
もうひとつは、海上保安庁巡視船「みなべ」から、海上自衛隊の護衛艦「せとゆき」に乗り移ってからも、海上保安庁の船が自衛隊の護衛艦の周囲を取り巻いて一緒に移動をしてきました。
自衛隊の方にあの船は何をされているのですか?と聞くと「この船を護衛しています」とのこと。海上自衛隊の護衛艦を海上保安庁の巡視船が護衛?と思いましたが海上自衛隊の船に不埒な輩が何かしてきたとき、自衛隊は火器を持って応戦することはできないのですね。陸上なら警察が、海上では海上保安庁が国民の財産・生命を守るわけですね。 納得 納得の回答でした。
本文に掲載させていただきました、駐日トルコ共和国特命全権大使 セルメット・アタンジャル閣下の追悼文、ならびに、海上自衛隊呉地方総監 武田壽一海将の追悼文につきましては、式典当日配布いただいた追悼文集より転載禁止等の注意書きがないことを確認して、転載させていただきました。
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