2014年3月23日 高星輝次
2010年6月3日、エルトゥールル号殉難将士洋上追悼式典、アタチュルク像除幕式と参加させていただき、次は陸上追悼式が行われる「トルコ軍艦遭難慰霊碑」前にやって来ました。
こここそ、台風で軍艦が座礁・爆発し何とか一命をとりとめた人たちが必至の思いで樫野崎灯台の燈台守に救助を求め、村人が総出で救助に当たり、犠牲になった兵士たちを弔った場所です。任務を終えて無事トルコに帰りたかっただろうにと、思いをはせるだけで胸がいっぱいになり、涙が込み上げてきました。
午前中の洋上追悼式典が関係者による追悼式典に対し、陸上追悼式典は市民も参加しての色合いが強く、串本町の多くの人の手で120年間遭難された兵士たちの魂を慰めてきた歴史がうかがえる追悼式典でした。
式典が始まるのを待っていると、2009年4月30日東京日比谷で取材を受けたNHK和歌山の福本さんと再会しました。福本さんは今日も一人カメラを担ぎ、ご自身でインタビューをしながらの取材をされていました。
しばらく昨年の出会いを懐かしみ、そしてあの時「来年は串本で戦友会だ」といった冗談が現実になったことに対し、福本さんの報道のおかげとお礼を言った。福本さんは大変忙しそうなので長くはお話ができませんでしたが、宿泊先のホテルでのレセプションも取材されるとのこと、ホテルで会うこととしていったん別れました。
式典では寛仁親王殿下のお言葉を彬子女王殿下が替わって述べられました。この中でも1985年テヘランでのトルコ航空による邦人救出に対するお礼が述べられました。再び三度の涙・涙の感激です。
1890年エルトゥールル号が遭難して以来、串本のみなさまは慰霊碑を作り、毎月欠かさずきれいに清掃を行い、追悼の歌まであることをここに来て初めて知りました。
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作詞:泉 丈吉
作曲:打垣内 正
1) 陽は落ちぬ 悲しび深し
はるけきか 一つ星なる
海鳴りの いよよ冴えきて
白塔の ひらめきうつし
堪えがたく いのる声とも
2) ああはるか 齢を経ぬるも
うち仰ぐ 波の旺(さか)らば
とつくにの もののふあわれ
船甲羅(ふなごうら) うらみに呑みて
使節艦(つかいぶね) とわに影なく
3) 樫野なる 熊野の浦へは
老い老い(おいおい)し 漁人(すなとりびと)ら
指さして 声をひそめる
風くろく 暴(あ)れの夜なり
ああわれら とわに語らめ
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追悼歌を作り、歌い継ぎ、そして慰霊碑をいつも清掃している串本の皆様。そのたゆまぬ地道な行動が95年の年月を隔ててテヘランからの邦人救出となった訳であります。これにも感謝・感謝で本当に頭の下がる思いです。
陸上追悼式も終わり、トルコ記念館を見学して串本ロイヤルホテルに戻ってきました。夕方7時より「日本-トルコ友好120周年記念レセプション」にも出席させていただきます。
レセプション会場では、エルトゥールル号の司令官オスマン・パシャの子孫にあたるオスマン・テキタシュさんにも会うことができました。エルトゥールル号の遭難後の遺品回収や引き上げをされた方の子孫の方にも会うことができました。大変な歴史的出来事であったことをまた改めて知らされました。
して串本町の田嶋町長の挨拶にまたびっくりさせられました。最近になってエルトゥールル号乗組員の救助に当たった大島村の医者の手紙が発見されたという、その内容にはどうしてこの方たちはここまで立派なんだという驚きがありました。
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53名のカルテと一緒に見つかった医師3名が書いた文章(一部)
(明治23年9月22日)
本日、閣下より薬價(やっか)・施術料の清算書を調成して進達すべき旨の
通牒(つうちょう)を本村役場より得たり。
然れども 不肖 素より薬價・施術料を請求するの念なく、
唯唯(ただただ)負傷者の惨憺(さんたん)を憫察(びんさつ)し、
ひたすら救助一途の惻隠新(そくいんしん)より拮きょ(きっきょ)
従事せし事 故 其の薬價治術料は 該遭難者へ義捐致し度 候間(そうろうま)
此の段 宜しく御取り計らい下さりたく候也。
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明治政府が大島の医者に対して、薬代や施術料を請求するように通知を出したものに対して、もともとそのようなものを請求するつもりは持っていない、ただただ負傷者の惨憺たる状況に憐れみを感じ、必死に救助したまでのこと。
薬代・施術料があるならそれは遭難者への義援金としてもらえるよう取り計らっていただきたいというのである。
失礼ながら、当時の状況では医師といえどもそれほど裕福ではなく、薬代などは治療を続けていくためにはどうしても必要な費用だったはず、そして明治政府が薬代・施術料を払うと言っているのであって、遭難者からいただくわけでもなく、何も心苦しいところはなく請求できるはずなのに・・・そんな金があるなら義援金にして遭難者のために使ってくれというのである。これもまたただただ感動である。
テヘランにいたころ、イラン国営放送で日本の「赤ひげ」を放送したことがあって、このときN商社の現地スタッフ ダブード君からは「日本にはまだ赤ひげがいるのか?」と聞かれたことがあった。
この串本の医者たちの行動でも知っていれば、日本の医者の博愛の心をもう少し語ってあげられたのにと、ふとダブード君を思い出したものでありました。
一方NHK和歌山の福本記者は、レセプション会場でも汗だくになりながら、カメラマン・インタビューアの一人二役で頑張っていました。「レセプションが終わったら部屋に尋ねてもいいですか?ゆっくりお話ししましょう」とのことで、部屋番号を教え後で会う約束をした。
沼田さんと私は、取材ではなくビールでも飲みながら世間話くらいに受け止めていましたが、部屋に現れた福本さんは、今度は音声さんを伴って現れました。そしてまたしばらくの取材となりました。
せっかくの取材でもありますし、沼田さんと私は当時の体験やら、今日の記念行事の感想などを取材されました。取材も終わってカメラを止めたあと初めて知り合いらしい会話ができたように覚えています。
串本滞在2日目はこうして朝から晩まで、驚きと感動の一日でした。
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